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映画ジャンル別ガイド 2025/5/30
Written by 鳥羽才一

脚本術で読む映画『ジュラシック・パーク』ストーリー・あらすじをラストまでネタバレ解説

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『ジュラシック・パーク』のストーリーを、脚本術「Save the Cat!」の15ビート構成で読み解く! 物語はどう動き、なぜ心を掴むのか──構造を知れば、あらすじは一本の“読みもの”に。脚本というレンズで映画の設計図を覗いてみましょう。

Contents

映画『ジュラシック・パーク』とは?

1993年に公開された映画『ジュラシック・パーク』は、スティーヴン・スピルバーグ監督によるSFアドベンチャーの金字塔です。原作はマイケル・クライトンの同名小説で、遺伝子工学によって現代に甦った恐竜たちがテーマパーク内で暴走するという壮大な物語が描かれます。

本作は革新的だったCG技術とアニマトロニクス(恐竜の実物大ロボット)を駆使し、視覚的にも観客に強烈なインパクトを残しました。公開後はもちろん大ヒット! 後のシリーズ作品や恐竜ブームを牽引するほどの社会現象を巻き起こします。

しかもサスペンス、パニック、ファミリー要素が絶妙に融合しているので、子供が観ても楽しい、大人が観るともっと楽しい構成に。倫理観や科学技術の暴走といったテーマも盛り込まれ、単なるエンタメ作品にはない深みが生まれました。

その後も続編やスピンオフを生み続ける『ジュラシック・パーク』シリーズの第一作として、映画史においても重要な一作です。

シリーズ一覧(邦題/原題)

  1. ジュラシック・パーク / Jurassic Park(1993)
  2. ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク / The Lost World: Jurassic Park(1997)
  3. ジュラシック・パークIII / Jurassic Park III(2001)
  4. ジュラシック・ワールド / Jurassic World(2015)
  5. ジュラシック・ワールド/炎の王国 / Jurassic World: Fallen Kingdom(2018)
  6. ジュラシック・ワールド/新たなる支配者 / Jurassic World: Dominion(2022)

2025年8月に新作公開

2025年8月にはジュラシック・ワールド/復活の大地(Jurassic World: Rebirth)が公開予定! 前作から時が経ち、地球はさらに過酷な環境に──新恐竜、最新の研究結果が反映されたスピノサウルス再登場と、目が離せない内容になっています。

スナイダー式ジャンル分けだと『家の中のモンスター』

『ジュラシック・パーク』はスナイダーの10ジャンルで分類するならば、間違いなく『家の中のモンスター』に該当します。

このジャンルのポイントは「閉鎖空間に現れた危険な存在」と「その空間で逃げ場を失った人々」。テーマパークという一見理想的な空間が、嵐とシステム障害によって一転。恐竜たちという制御不能のモンスターが襲いかかる密室サバイバルへと変貌します。

恐竜の存在そのものが科学の倫理的限界を超えて生み出された災厄であり、まさに「家=パーク」の内部で巻き起こるスリラー構造が本作の核となっています。

Save the Cat!で読む『ジュラシック・パーク』のストーリー構成

オープニング・イメージ(Opening Image)

物語は、巨大なクレーンで吊り下げられた檻に収められた謎の生物が、ジャングルの奥深くにある施設へと運ばれる衝撃的なシーンから始まります。

鋼鉄製のゲートが音を立てて開かれ、警備員たちが銃を構えながら警戒する中、その檻は不穏な気配を放ちながら設置されていきます。ここで描かれるのは、明確な姿を見せない“何か”への恐怖──観客に「見えない脅威」のイメージを強く刻みつける、実にスピルバーグらしい幕開けです。

このシークエンスは物語全体に通底する自然の脅威や人間の傲慢といったテーマを予感させるだけでなく、映像的にも強いインパクトを与えます。

恐竜の姿を一切見せずに「音」と「反応」だけで観客を怖がらせるという演出はジョーズにも通じるテクニック。スリルと緊張感に満ちた導入によって物語のスケールと方向性が一気に伝わる構成となっています。

冒頭で犠牲になる作業員の死は、この「夢のテーマパーク」が決して楽園ではないことを示す重要な伏線となっています。ただのサファリではない、ここには人智を超えた何かがある──そうした不穏な世界への扉を開く瞬間……! まさに恐竜たちの王国へ足を踏み入れる前の「最後の現代」なのです。

テーマの提示(Theme Stated)

神の領域に踏み込むべきではない──この物語のテーマは冒頭から静かに、しかし確実に提示されています。

施設で作業員が命を落とした直後、映像は冷静で威厳のある弁護士ドナルド・ジェナロの登場へと移ります。彼は、死亡事故の補償や安全性に疑念を持つ出資者の代理人として、テーマパーク「ジュラシック・パーク」の視察に乗り出します。

法的な問題と保険、そして命の扱い──そうした現実的な問題を通して、観客にも「これは遊びではない」と気づかせる重要なパートです。

さらに採掘現場で登場するアラン・グラント博士とエリー・サトラー博士は、発掘中の恐竜の骨から、その生態や進化の痕跡を読み解いています。彼らのやりとりを通じて、恐竜が鳥類の祖先であるという科学的知見が語られ「過去への興味と畏敬」が描かれていきます。

ここに、パークの理念である古代生物の復活がどう受け取られるのか、肯定と懐疑の両面がにじみます。

「生命は道を見つける」

後にマルコム博士が語るこの言葉こそ本作全体の主題です。科学によって制御可能だと信じていた命が予想を超えて暴走する──その危うさと自然への畏れが、この時点から伏線として織り込まれているのです。

セットアップ(Set-Up)

アラン・グラント博士とエリー・サトラー博士が発掘現場で恐竜の骨を調査している場面。二人の職業観や恐竜に対する専門的な理解、そして人柄が丁寧に描かれていきます。グラント博士の子供嫌いという特徴もユーモラスに紹介──後に登場する子供たちとの関係性の伏線として使われます。

そこへ突如現れるのがパークの創設者ジョン・ハモンド。穏やかで楽天的な老紳士の彼は、出資者たちを納得させるためにグラント博士たちを自らの夢の楽園に招待します。その語り口からは「偉業」への確信と、どこか子供じみた無邪気さが。観客はこの人物の理想と現実の乖離に不安を抱き始めます。

同時にマルコム博士やジェナロ弁護士らも招かれ「専門家チーム」が揃っていきます。パークの全貌が明かされる前に、観客は「それぞれの立場からの意見」を通して楽園に対する懐疑心や期待感を共有することに。

そして舞台はついに「ジュラシック・パーク」へ。青々としたジャングルの中に立ち並ぶ施設群──ここで観客は初めて物語の主戦場となる島に降り立つことになります。

このセクションでは、人物の関係性や専門性、立場の違いが明確に配置され、物語が本格的に動き出す土台が築かれます。博士たちの目線を通じて「復活した恐竜」をどう受け止めるか、観客自身にも選択を促す構成になっているのです。

きっかけ(Catalyst)

ジュラシック・パークの島に降り立った一行の目の前に、ついに恐竜が! 長い首をゆったりと持ち上げ、草を食む巨大なブラキオサウルス。その威容を目にした瞬間、誰もが言葉を失い立ち尽くします。

このシーンはまさに観客の視点とキャラクターの驚きが完全にシンクロする瞬間。リアルを知らなくてもリアルに感じる恐竜の動きと、テーマ曲の高らかな旋律が重なり「夢の楽園が本当に存在した」という感動を一気に押し寄せさせます。

けれども──その感動の裏で観客は静かに気づきはじめます。なぜ恐竜が現代に生きているのか? どうやって生み出したのか? そして、それは果たしてコントロール可能な夢なのか……?

この場面は単なるお披露目ではなく、科学が倫理や自然の摂理を超えた時に生まれる「戸惑い」を内包した象徴でもあります。マルコム博士が語る「生命は道を見つける」という言葉が後の混乱を暗示するように、ここで物語の重心は一気に「未知の領域」へと傾いていきます。

つまり、恐竜との邂逅は驚きと喜びのピークであると同時に「この島では何かが起こる」という決定的な引き金でもあるのです。

悩みのとき(Debate)

「科学の奇跡」か「神の領域への冒涜」か──パーク内部を視察する中で、恐竜の孵化場やDNA抽出の解説映像などが次々に披露されると、登場人物たちはそれぞれの立場から反応を示し始めます。

ハモンドは「人類の夢が実現した」と語るのに対し「あなたたちは、できるかどうかばかり考えていた。やっていいかどうか、立ち止まらなかった」と警鐘を鳴らすマルコム博士。

そして決定打となるのが、すべての恐竜がメスであるというシステム。生殖をコントロールすることで管理できるという理屈に、博士たちは疑念を深めていきます。自然はそんなに単純ではない──彼らの懸念は、やがて現実となって牙をむくことになります。

このパートはいわば科学と自然の対話。夢のような楽園でありながら、どこか歪んだ違和感が積み重ねられていく時間です。見た目には穏やかで、子供たちも目を輝かせるようなシーンが続くのに、観客の心には「本当にこれでいいのか?」という小さなざわめきが残ります。

何より印象的なのはマルコムの存在。ユーモラスで皮肉屋な彼の語りが、この楽園に対する異物として機能し、物語をバランスよく揺さぶってくれるのです。

この「問いの時間」を通して、観客もまた物語の中で立ち止まり、悩むことに──それこそがジュラシック・パークが単なる冒険映画ではない所以なのです。

第一ターニング・ポイント(Break into Two)

楽園の表皮が音を立てて剥がれ落ちていく──そのきっかけは、たった一人の裏切りから始まります。

システムエンジニアのネドリーが金目当てに恐竜の胚を盗み出し、そのためにパーク全体のセキュリティを無効化。電気柵は止まり、監視カメラも沈黙し、制御室は混乱に陥ります。こうして、すべての恐竜を閉じ込めていた安全装置が、音もなく開いてしまうのです。

そして決定的な転換点はティラノサウルス・レックス(Tレックス)の登場。豪雨の中、車に取り残された子供たち。軋む鉄柵、重低音の足音、車内を震わせる咆哮。緊張は臨界点に達し、観客はただ固唾を呑むしかありません。

ここで描かれるのは、完全なる力の不均衡。科学の力ではどうにもならない、生物としての圧倒的な格差が突きつけられます。

グラントは子供たちを守るため咄嗟に動き出し、命懸けの逃走劇が始まります。マルコムもまた、自ら囮になることで彼らを守ろうとする。この瞬間、物語は「観察者の立場」から「生存者の立場」へとシフトし、登場人物たちは否応なく楽園の裏側へと踏み込んでいくのです。

ここから先は誰も安全圏にはいられない、観光でも研究でもない、純然たる「サバイバルの物語」が幕を開けることになります。

お楽しみ(Fun and Games)

嵐の夜、ティラノサウルスの猛攻からなんとか逃れたグラントは、ティムとレックスという子供たちと共に深い森を歩いて帰還を目指すことになります。道中、草食恐竜たちとのふれあいや、恐竜の巣の発見といったスリルとユーモアが絶妙にブレンドされた展開が続きます。

特に印象的なのは、寝そべって呼吸する巨大なトリケラトプスとの邂逅。恐竜の鼻息で髪がなびき、鼓動が響くその生体感──CGとアニマトロニクスの融合によって生まれたこの生命の実在感は、観客にとっても「ここに本当に恐竜がいる」と感じさせる奇跡の瞬間です。

一方、施設側ではエリーやマルコムが奔走。電力の復旧を試みたり、怪我人を避難させたりしながら、それぞれの立場で事態の収拾に努めています。ここでは、各キャラクターの強さや人間味が浮き彫りになり、単なるパニックではない「人間ドラマ」としての深みが加わっていきます。

この「お楽しみ」パートは、単なる恐竜見せ場ではありません。それぞれの登場人物が、恐竜という奇跡を前にしてどう向き合うのかが描かれ、「感動」と「恐怖」が紙一重で織りなされる、まさに映画の核にあたるパート。

観客もまた、スクリーンの中でグラントたちと一緒に息を潜め、逃げ、驚き、笑い、感動していく──それがこのセクションの醍醐味なのです。

サブプロット(B Story)

物語の縦軸が「自然の脅威と科学の限界」だとすれば、このBストーリーは横軸の「人と人との絆の物語」。その中心にいるのが、アラン・グラント博士とティム&レックスの兄妹です。

冒頭で「子供は苦手なんだ」とこぼしていたグラントにとって、この予期せぬ同行はまさに苦行。しかし極限状況の中で彼の態度は少しずつ、しかし確かに変わっていきます。

ティラノサウルスから逃げる際に体を張って子供たちを守った瞬間を皮切りに、彼は科学者ではなく保護者として動きはじめます。電気柵の下をくぐらせるとき、木に引っかかった車の中からティムを救い出すとき、グラントの手は常に子供たちに向けられているのです。

特に印象的なのは木の上で眠る三人の場面。恐竜の鳴き声を聞きながら、グラントが穏やかな表情で見守るその姿には「守る責任」と「育む温かさ」の両方が芽生えていることが伝わってきます。あの瞬間、観客は彼を父性に目覚めた男として見るのです。

このサブプロットが優れているのは、決して大仰な台詞や出来事で語られないこと。ちょっとした仕草、視線、間合い──それらを通して変化が確かに積み上がっていく構成になっています。

ラスト近く、ヘリの中で子供たちがグラントの腕に寄り添う姿は、ただのサバイバルではない旅の成果の象徴。人は恐竜よりも複雑で、厄介で、けれど愛すべき存在──その小さな発見が、このBストーリーの到達点なのです。

ミッドポイント(Midpoint)

グラントたちはジャングルの中で、ある異常な光景に遭遇します。地面に並ぶ大小さまざまな恐竜の卵の殻──それは明らかに自然孵化によって割られたものであり、もはや「全ての恐竜はメスである」という前提が崩れ去ったことを意味していました。

生命は道を見つけるというマルコム博士の予言が、ここにきて現実となってしまったわけです。人間がどれだけDNAを操作し、性別を制限し、繁殖を制御したとしても、生命は想定の枠を超えて変化し、適応し、生き延びようとするということ。

つまりこのパークは、すでに管理された楽園ではなく、独自の生態系と意志を持った野生へと進化を始めていたのです。この瞬間はストーリー構造上も大きな意味を持ちます。

前半では「恐竜が復活した世界をどう生き延びるか」が主眼でしたが、ここから先は「恐竜という種がこの世界にどう居場所を築き始めるか」へと視点が移っていきます。もはや人間は創造主でも支配者でもありません。ただの異物として、島の生態系に飲み込まれていくしかありません。

視察ツアーの夢は完全に砕け散り、ハモンドの理想はもはや現実と乖離しきっている。それでも彼は「次はもっと上手くやれる」と呟き、どこかでまだ理想を捨てきれずにいます。

このミッドポイントはパーク破綻のお知らせであると同時に、人間の信念と愚かさが正面からぶつかる瞬間でもあるのです。

すべてを失って(All Is Lost)

ラプトルの襲撃によって施設内は完全に制圧され、残された人々は互いの安否すら確認できない状況に。通信は途絶え、電力は不安定、逃げ場も尽きつつあり、グラントたちは文字通り閉じ込められた状態となります。

一方、パークの創設者であるハモンドも、ここに至って初めて自身の過ちと向き合うことになります。理想に酔いしれていた彼が語る「次はもっと上手くやれるさ」という言葉は、もはや空虚に響くだけ。彼の視線は、かつて輝いていた夢のパークではなく、失われた命と壊れた信頼の上に沈んでいます。

このセクションで描かれるのは、登場人物たちの心が静かに折れかけている姿です。逃げることも戦うこともままならず、ただ息を殺して物陰に潜むしかない。かつては子供の目を輝かせた施設が、今では恐怖と死の迷宮と化しています。

観客もまた「この状況に、果たして救いはあるのだろうか」と感じ始めます。科学は裏切り、人間の傲慢さは代償を生み、そして生命は思い通りにはならなかった──楽園は崩壊し、登場人物たちは物語の最深部で希望を失う瞬間を迎えるのです。

心の暗闇(Dark Night of the Soul)

グラント博士は傷ついた子供たちのそばに寄り添いながら、彼らにとっての「大人」としての役割を果たそうとします。最初はただ守るだけだったはずが、いつしか彼の行動には育てる者としての責任が滲み出ています。暗い施設の中、肩を寄せ合う姿に、確かに「家族の原型」のような温もりが宿っているのです。

ハモンドは沈んだ表情で溶けたアイスクリームを見つめています。かつて夢を語るために作られたそのデザートは、冷却設備の停止によって溶け落ち、彼の理想と同じように形を失いました。彼の言葉には初めて迷いと後悔が混ざり「自分は間違っていたのかもしれない」と認めざるを得ない姿が描かれます。

一方、マルコム博士は依然として負傷したまま横たわりながらも、皮肉を交えつつ状況を冷静に見つめています。彼の言葉には、かすかな諦めと、それでもどこか人間への信頼が残されています。

この時間帯は派手なアクションも感動的なセリフもありません。しかし登場人物それぞれの内面が最も深くえぐられ、観客自身もまた「自分だったらどうするか」と問いを突きつけられる構成となっています。

それは科学の敗北と向き合った人間たちが、ようやく希望と責任を手にし直そうとする、静かな覚悟の時間なのです。

第二ターニング・ポイント(Break into Three)

生き残った者たちは最後の力を振り絞って出口を目指します。もはや恐竜たちとの共存は不可能であり、この島で為すべきことはただ一つ──脱出だけ。

施設内に潜むヴェロキラプトルたちは執拗に追い詰めてきます。音もなく接近し、わずかな物音すら逃さない知性を持った捕食者たちが、人間たちの行く手をことごとく塞ぎます。

それでもグラントは子供たちを守るという目的のために立ち止まりません。エリーと連携し、制御室の電源復旧とドアのロック、そして館内移動のタイミングを冷静に見極めながら行動を続けます。ここに来て、彼の判断力と勇気が、家族の父としての輪郭をくっきりと描き出すことになります。

中でも象徴的なのは、ラプトルが侵入した展示ホールでの決死の逃走。骨格模型を崩しながらのアクションは、まるで進化の系譜そのものを崩壊させるような暗喩にも感じられ、かつての栄光と今の混乱が交錯する印象的な場面です。

ここでついに、物語はクライマックスへと舵を切ります。サバイバルの延長ではなく、人としての責任を果たす時間が始まるのです。

フィナーレ(Finale)

絶体絶命の状況の中、展示ホールへ追い詰められたグラント、エリー、そして子供たち。そこに現れるのは、なんとティラノサウルス。獲物を狙っていたラプトルたちを一蹴し、圧倒的な力で襲いかかる姿は、まさに捕食者の王の帰還です。

恐竜たちの本能的な闘争の中、グラントたちはその隙を突いて脱出。ロビーの恐竜骨格が崩れ落ちるなか、一行はようやく安全地帯へと逃げ込むことに成功します。

この場面は「人間の知恵がすべてを解決する」という構造ではなく、自然同士の衝突によって状況が転換するという点に特徴があります。人間はこの世界の支配者ではなく、ただ運よく生き残った一存在にすぎない──その謙虚な視点こそが、作品全体の締めくくりにふさわしい余韻を与えてくれます。

そしてラスト、ヘリに乗り込んだ一行が島を後にします。傷だらけの彼らは何も語らず、ただ静かに遠ざかっていく──グラントは眠る子供たちに目をやり、エリーと短く視線を交わします。

パークは失敗に終わりました。しかし、そこにあった生命は確かに輝いていた。その重みを抱えながら、人間たちは再び現代へと戻っていくのです。

ファイナル・イメージ(Final Image)

ヘリの中、かつては「子供嫌い」だったグラント博士が、ティムとレックスを両腕に抱えながら静かに目を閉じています。傷つきながらも眠る子供たちの安らかな表情。そしてその向こうに広がる、曇りのない空──それは、嵐と混乱を乗り越えた後の「静けさ」と「再生」を象徴する光景です。

島を離れた彼らが見せる沈黙には、多くのものが込められています。失われた命、砕けた理想、知識の限界と、それでも残った生きる意思。誰もが多くを語らず、ただ今ある命の重みに向き合っているのです。

このシーンにおいて、物語は始まりの「恐竜を見たときの驚き」から「生命の尊さに気づいた静かな眼差し」へと移り変わっています。恐竜はもはや見世物ではなく、敬意と畏怖をもって接するべき存在として描かれ、観客にも深い余韻を残していきます。

ファイナル・イメージとは、物語を締めくくるだけでなく、観る者の心に何を残すかを決定づける最後の一枚。この『ジュラシック・パーク』では、科学と自然、人間と生命の関係において「何が本当に大切なのか」をそっと問いかけて終わります。

恐竜の鳴き声が遠ざかり、ヘリが空へ舞い上がる──それはただの脱出ではなく、人間がもう一度地に足をつけ直す旅の終わりなのです。

映画『ジュラシック・パーク』主な制作陣・キャスト

スティーヴン・スピルバーグ【監督】

映画史に名を刻む巨匠。『ジュラシック・パーク』では恐竜の生命感と人間の恐怖、科学への問いを織り交ぜたエンタメ大作を完成させた。

代表作

  • ジョーズ
  • E.T.
  • シンドラーのリスト
  • プライベート・ライアン
  • レディ・プレイヤー1

マイケル・クライトン【原作・脚本協力】

原作小説『ジュラシック・パーク』の著者。科学とスリラーを融合させる手腕に定評があり、脚本協力にも名を連ねている。

代表作

  • ウエストワールド(原作・監督)
  • アンドロメダ病原体
  • スフィア
  • ER緊急救命室(TVシリーズ原案)

ジョン・ウィリアムズ【音楽】

壮大なメインテーマと繊細なスコアで映画に神話的スケールを与えた。観客の心を震わせる旋律は、シリーズの象徴でもある。

代表作

  • スター・ウォーズ シリーズ
  • インディ・ジョーンズ シリーズ
  • ハリー・ポッター シリーズ
  • E.T.
  • シンドラーのリスト

サム・ニール【アラン・グラント博士役】

古生物学者であるグラント博士を知的かつ勇敢に演じ、シリーズを代表するキャラクターに。シリーズ第3作にも再登場。

代表作

  • ピアノ・レッスン
  • イベント・ホライゾン
  • 狩人の夜
  • ジュラシック・パークIII

ローラ・ダーン【エリー・サトラー博士役】

植物学者として登場。知性と行動力を兼ね備えたヒロイン像を確立した。シリーズ後半にも復帰して存在感を発揮。

代表作

  • ワイルド・アット・ハート
  • マリッジ・ストーリー
  • ザ・テイル
  • ジュラシック・ワールド/新たなる支配者

ジェフ・ゴールドブラム【イアン・マルコム博士役】

皮肉屋で独自の哲学を語るカオス理論の学者。絶妙なユーモアと存在感で人気キャラクターに。続編では主役としても活躍。

代表作

  • ザ・フライ
  • インデペンデンス・デイ
  • グランド・ブダペスト・ホテル
  • ジュラシック・ワールド/炎の王国

リチャード・アッテンボロー【ジョン・ハモンド役】

パーク創設者である老人ハモンドを温かくも盲目的な理想家として演じる。スピルバーグ監督作『遠い空の向こうに』などにも出演。

代表作

  • ガンジー(監督・主演)
  • コーラスライン
  • 奇蹟の人
  • ジュラシック・パーク/ロスト・ワールド

なぜ『ジュラシック・パーク』は時を越えて語り継がれるのか

映像革命を超えた「恐竜との再会」

『ジュラシック・パーク』が公開された1993年、観客が目にしたのは単なる恐竜のCGではありませんでした。それは太古の生命が現代に生きていると信じさせるレベルのリアリティー!

アニマトロニクスと当時最先端のVFXを融合させ、観客に「もしも恐竜が蘇ったら」を現実として体感させたこの映画は、以後の映像表現を根本から塗り替える作品となりました。しかし真に優れているのは映像革命そのものではありません。

スピルバーグはそこに「生命とは何か」「科学とはどこまで許されるのか」という、観る者の倫理と想像力に問いを投げかけるドラマを織り込んでいました。子供向けのエンタメとして描かれつつも、その奥底には人間の傲慢さ、自然への敬意、そして親になることの責任といった、深く普遍的なテーマが流れています。

「夢の裏側」に潜むもの

物語の冒頭、観客は楽園を目にします。緑豊かな島、美しく再現された恐竜たち、家族連れにも優しい設計──ジュラシック・パークは、まさに夢の施設として描かれます。

けれどその裏では企業の商業主義、安全軽視、技術の過信、内部の裏切りといった現実も。恐竜という驚異が表現するのは単なるモンスターではなく、人間自体が制御しきれないものとして描かれています。

この夢の裏側を暴いていく構成があるからこそ、本作は単なるアトラクションムービーでは終わらず「夢を見せながら、覚まさせる」構造を成立させています。

それでも、再び歩き出す

最終的にパークは崩壊し、多くの犠牲が出ます。それでもグラントやエリーたちは、子供たちと共に生きて戻ってきます。恐竜との出会いによって、彼らは科学者として、そして人として何かを得たことがはっきりと伝わる──それこそが、この映画が「ただのパニック映画」ではない最大の証です。

『ジュラシック・パーク』は絶滅したはずの生き物を描いた映画でありながら「生命は道を見つける」という言葉と共に、観客の心に生きる力を植えつけていきます。

だからこそこの作品は時が経っても何度でも語り継がれる──それにふさわしい、真の傑作なのです。

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